2011年07月05日

U.S. Army Museum of Hawaii

ホノルル国際空港に到着後、宿泊先ホテルにバスで向かう途中、のどかな公園の雰囲気を横目に眺めていると、戦車や砲台が立ち並ぶ建物の一角がふと目に入りました。後に調べて分かったのですが、この公園が "フォートデロシー・ビーチ・パーク" で、その中にある戦車や砲台が立ち並ぶ建物が "U.S. Army Museum of Hawaii" でした。
フリープランとしていた翌日、少し早起きして訪れてみることに。


ホノルルから程近い場所にあって、男性を中心に隠れたスポットとして人気があるとして日本でも少しは紹介されているようです。
パッと見た感じでも直ぐに分かるぐらい「いかにも!」という雰囲気の、分かり易い「軍人らしさ」を持った初老の男性がカウンターにいました。この館への入場は無料。どこから来たのかと、名前を記入さえすれば誰でも入館できます。
館内には第二次世界大戦、とりわけ日本と米国との間に起こったあの戦争を中心に、米国によるハワイ侵略と併合の戦史も交えて多くの物品と共に展示しています。


そして時系列に沿ってミュージアムの展示は続きます。
こちら向かって左は、 "Magazine Rifle Model 1903, .30 Cal" 。M1896 を改良した優秀なライフルとして展示。第一次世界大戦から第二次世界大戦に掛けてスプリングフィールド・アーモリーとロックアイランド・アーモリーによっておよそ140万本が製造されています。
そして右側は通称 "American Enfield" とも呼ばれる M1917 エンフィールド。M1903 Springfield と同様のボルト作動方式を採用。
第一次世界大戦の戦乱の中で、米国からの要求に応えるため、銃器製造メーカーは英国版のものより小さい口径で急遽製造を間に合わせることで、2,202,429挺のエンフィールドを製造したそうです。


20世紀の前半に日本の軍事シーンで活躍したオートロード式ピストルの決定版、南部ピストル。いわゆる "南部大拳" の南部式大型自動拳銃 。


凛とした雰囲気の佇まいが印象的な騎乗の大日本帝国軍人の写真が飾られ、その下には当時を偲ばす物品が展示されています。


旅行の本題から逸れて、今年になって読み終えた書籍をご紹介。渡部昇一著 日本の歴史6 昭和編、「昭和の大戦」への道。ブロック経済とABCD包囲網(America、Britain、China、Dutchの頭文字から取った経済包囲陣)による、「導かれし日本の参戦」や、"五族協和" の満州国の実態、南京大虐殺の不思議などなど、興味深い日本の参戦前後の史実に関する話題が詳しく書かれています。中でも南京大虐殺については、当時の南京の人口が25万人そこそこであったにもかかわらず、戦後、中国が主張する20万人とも30万人とも言われる、南京の人口に匹敵またはそれ以上の人数を日本軍が虐殺したとする不可思議な主張の真偽について独自の切り口で迫ります。日教組による、いわゆる左派的思想の中で教育課程を修了した我々世代にとっては、日本の近代史を知る中で、何となく、そして、いつの間にか欠如していた大切な日本の近代史の背景を改めて見詰め直すことができます。
とりわけ日本が米国に対する宣戦布告として表現される真珠湾攻撃(パールハーバーアタック)については、当時ワシントンに居た日本大使館員のケアレスミスとも言える伝達ミスによって、本来は正式な宣戦布告での開戦をしなければならないはずが、結果として "奇襲攻撃" となってしまった痛憤の極みとも言える日本側の失態を、如実に記載しており、目から鱗の展開で読み入ったものでした。

続く 日本歴史7 戦後編 「戦後」混迷の時代に では、その東京裁判を中心に展開します。"無条件降伏" として誤認され続けているポツダム宣言は日本軍の陸・海・空軍に対してするという条件付降伏、つまり "有条件降伏" であったとする内容などに触れ、リットン報告書によるところでは、日本が侵略戦争をおこなおうとしていたわけではないとすることについて解説されているなどなど、興味深い記事が満載です。
日本の近代史を語る上で、最も大きなターニングポイントであったのは間違い無く先の大戦を敗戦で迎えたことであったはずです。良くも悪くも敗戦で迎えた日本。特に、東京裁判を始め、米国による戦後統治の影響は単に軍事的な側面ではなく、政治や経済をも巻き込んだ大きな潮流であったのだなーと改めて痛感させられます。


Japanese Howitzer, Model 92 (1932) こと 九二式歩兵砲。1930年代初期から大日本帝国陸軍の歩兵部隊に配備された歩兵砲です。米軍との陸戦で敗れた際に鹵獲されたものでしょうか。その辺の背景まではわかりませんが、当時を偲ぶ展示品です。


最大水平射程距離は約2,800m。毎分10発程度の連射が可能とのこと。6秒に1発とは結構早いのでは!?と感じた次第です。


続いて用意されたスペースの中にポツンと展示されたケースが。


近付いてよく見てみると、「日本軍の小さな損失」と題されたこちらの展示物は、米側にKate(ケイト)というコードネームで呼ばれていた中島製(B5N) 九七式艦上攻撃機 三号の水平尾翼の一部。真珠湾攻撃の際には143機が参加していました。


こちらは最近読み終えた書籍。
多くの "神話" とともに語り継がれている "ゼロ戦" こと "零式艦上戦闘機" の真実に鋭くメスを入れた書籍、清水政彦著 零式艦上戦闘機(新潮選書刊)。神武紀元2600年となる昭和15年(西暦1940年)に正式採用され、その年式の下二桁から由来し、名付けられた "ゼロ戦" 。ゼロ戦は、三菱による生産と中島飛行機(現在の「スバル」富士重工業)によるライセンス生産によって10,000機以上生産された当時の日本軍を語る上で欠かせない戦闘機ですが、この書籍を読むと、今まで自分が描いていたのとは全く違うゼロ戦の評価が、史実に基づき数理の上で分析されています。本書では、軍政下でのプロパガンダとして利用され、また戦後復興の際に、 "技術大国日本" を象徴する希望としても語り草となったゼロ戦の真実に迫ります。ただ・・・、技術的なことや専門的なことが多く記載されているので、やや上級者向きに感じます。知らなかった話題に出会えるので時間は掛かりましたが、何とか読み切ることができました。


"洋上戦における空軍力" と名付けられたこちらの展示物のテキスト箇所には、当時の日本軍が保有していたレシプロ機、Nakajima B5N2 Type97 "Kate"、Aichi D3A1 Type99 "Val"、Mitsubishi A6M2 Type0 "Zero"が紹介されています。
またそのテキストでの紹介の横には、空母「赤城」から発艦した AI-154 Mitsubishi A6M2 Model 21(Type 0) Fighter や、同じく空母「翔鶴」から発艦した EI-311 Nakajima B5N2 Model 12(Type 97) Bomber、空母「加賀」から発艦の AII-256 Aichi D3A1 Model 11 (Type99) Dive Bomber、空母「飛龍」から発艦の BII-120 Mitsubishi A6M2 Model 21 (Type0) Fighter、空母「瑞鶴」から発艦の EII-140 Mitsubishi A6M2 Model 21 (Type0) Fighterなどといった、当時の日本海軍の主力空母と艦載機の組み合わせが模型と共に紹介されています。

ゼロ戦がデビューする3年前の昭和12年、防空戦闘機として「十二試艦戦」こと「十二試艦上戦闘機」の開発作業が着手されます。それまでの洋上戦闘では戦艦などによる艦隊決戦が至上主義とされていた中で、大きな転機となる上海事変を迎え、日本軍初となる艦載機による本格的な戦闘を経験し、以後の洋上戦闘に大きな影響を与えたとされています。

こちらの展示物では、航空母艦による洋上戦闘が革命的な出来事であったことを解説し、1940年代前半の当時、間違いなく世界の戦闘機製造のトップクラスに位置していた日本軍が保有する航空機のその潜在能力の高さを評価しています。


続いてこちらは "ブローニング M1917 重機関銃"
米国が生んだ天才銃器設計家のジョン・ブローニング(John Browning、1855~1926)が開発したもので、第二次世界大戦から朝鮮戦争に渡って米陸軍で使用され続けたそうです。現在は親米諸国へ供与されているそうです。


1884年、イギリス人発明家によって世界初の全自動式機関銃のマキシム機関銃が開発され、"第0次世界大戦" こと日露戦争で投入されます。人類の歴史上で初めて本格的に機関銃が用いられた戦争としても有名な日露戦争で、ロシアはこのマキシム機関銃を早速使用し、日本軍は陸戦での展開に苦しめられました。資料によっては、マキシム機関銃による日本側の犠牲者数は、犠牲となった日本兵のうち半数にも達するとされており、後に、戦闘シーンでの機関銃の有効性が広く世界に知られることになります。とりわけ陸戦での戦局を決定付ける画期的な兵器として、列強を中心に注目を集め、開発が進められた機関銃は、米国とて例外なくその採用を進めました。
写真のパネルでは第一次大戦のドイツでの教訓から、M1917A1機関銃を導入する背景やその後の輝かしい米軍史の戦績に関する記述、米陸軍によってワイキキビーチに並べられた大層な数のトーチカ、有刺鉄線など、その軍事的な防御ラインの情景が記述されています。


戦時下での日本側の様子を伝える当時の写真。民主主義とは何ぞや、民主主義はメイドイン・アメリカである、そして日本に自由を与えたのはアメリカであるといった、全てが正しいとは決して言い切れない、すなわちそうした "間違えた" 報道や主張、教育から今の日本は、はたと目を覚ますよう、政治的な意味合いも含めた大きな変革をする必要があるのでは?と思う今日この頃。
もちろん、アメリカだけが槍玉ではなく、アメリカだけが正義でもない・・・。もっと親日視点で、愛国の気持ちを持って日々の情報を自分なりに解析する目を、国民一人一人が持たねば、本当正しいことが何なのか? 先進国でそして自由と民主主義を掲げる国家の日本ですが、実際のところは必要な情報、正しい情報に飢えた国で、そこに辿り着くには国民個々の分析力が試されているようにも感じます。そうした意味からも、もしかすると軍国主義として悪名高き戦時下の日本と比肩しても、今日の日本の方が実は情報統制の影響を強く受けているのでは?・・・自ら情報を分析でき、その意思を強く持った人にしか "正しい情報" が手に入らない。最近の国内情勢を見ていると余計にそう感じます。


破竹の勢いで進軍する日本。陸軍を中心に南方作戦を進め、マレー、シンガポール、フィリピン、香港と勢力を拡大する中でイギリス、オランダ、アメリカといった当時の列強を次々と撃破。ソ連との国境を迎える地から中国、ビルマ、スマトラといった東南アジア全域からオーストラリアに迫るニューギニア付近までを日本の勢力図とし、太平洋上ではハワイまでもが攻撃可能な地域となるほどにまで進出。 "大東亜共栄圏" なる構想も現実味を帯びたかのように見えた一方で、大きなターニングポイントであるミッドウェー海戦を迎えます。またミッドウェー海戦の直前にはドリットルによるB-25での初の日本本土空襲、"ドゥリットル空襲" がおこなわれます。この頃から破竹の勢いで進軍してきた日本の勢力に大きな影が落ち、米軍の物量と情報戦、兵器開発能力が大きなアドバンテージとなって、まざまざとその "国力" の差を見せつけられていきます。
ミッドウェー海戦での敗戦によって、以降のガダルカナル島での戦闘や、サイパン、グアム、といったキーポイントでの玉砕に次ぐ玉砕へと繋がり、インパール作戦の失敗でアジア太平洋における敗戦を決定付けることになります。
写真はミッドウェー海戦で沈没した重巡洋艦 三隈。


1941年~1945年に掛けて繰り広げられた「World WarⅡ」。終戦後、米国(連合国)側がGHQによる統治政策の一環で、軍国主義を髣髴とさせることから「大東亜戦争」の呼称を禁じ、「第二次世界大戦」または「太平洋戦争」として呼称することを奨めました。
こちらの写真では当時のアジア・太平洋に関わる一連の作戦を統計した絵図となっており、個々の戦闘シーンでのキーマンとなる人物や、部隊のインシグニアがキャプションと共に取り上げられています。


12-Gauge(ゲージ)のショットガン Winchester M97とM1917 Bayonet(バヨネット:銃剣)、Thompson M1928A1などなど、大戦当時に米軍が使用していた小銃火器が展示されています。


こちらは別の角度から。Sniper Rifle の .30Cal M1903A4や、ブローニングM1918(BAR:Browning Automatic Rifle)などの展示も確認できます。


こちらは日本軍側の小銃火器を展示。72式 7.7mm 機関銃、99式 7.7mm ライフルなどが展示されています。


日本軍で採用されていた拳銃。左から 9mm 二十六年式回転拳銃、8mm 十四年式拳銃、8mm 九四式拳銃。


千人針。今は亡き祖母の実家で写真を整理した時に、祖母の近所のおじさんが出兵する様子を写した写真で見たことがあるような気がします。「武運長久」、「必勝祈願」などの願掛けで、「弾除け」にもなるとして戦地へ赴く兵士へ手渡されたそうです。非科学的なことは百も承知であったことでしょう・・・。

「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」

後の神風特攻隊として編成された「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の各名称は、江戸時代の医師であり国学者の本居宣長(1730~1801)の和歌から由来。日本人が日本人である品性と誇りを意味する「大和魂」と辞書を引けば、この和歌が引用されます。

「国家」とは何だろう?「愛国心」とは・・・。もっぱら最近の私の中での問いです。親を大事にすること、家族を大切に想う心。延々と受け継がれてきた自分にまつわる祖先を大事にする気持ちがあれば、必然と国家に対する敬意の念が出る。「今の自分がどうして存在するのか」
この行き着く先にあるのが「愛国心」であり、その実態として存在するのが「国家」なんだと考えています。これが今持つ私の国家感なんだと・・・。
死を覚悟の上で千人針を持って戦地へ行き、日本の行く末を信じ、自らの生命を捧げた多くの先人に恥じないよう生き、そして先人たちが創り上げたこの日本を守り、次の世代へ渡すのが私たちの使命なんだと、改めて感じます。そしてここには思想の "ミギ" も "ヒダリ" もないのだと。


写真向かって左から順に、"Porcelain Hand Grenade" と書かれた四式陶製手榴弾と、中央には "Stick Hand Grenade" とだけ書かれて紹介されている恐らく "九八式柄付手榴弾" と、右側には 九九式手榴弾 がそれぞれ紹介されています。


続いてこちらは "Type39 50mm Grenade Dischager" と書かれた、「八九式重擲弾筒(はちきゅうしきじゅうてきだんとう)」。小隊用軽迫撃砲として使用。


八九式重擲弾筒を鹵獲した米軍は当初、膝に乗せて撃つ小型の迫撃砲と勘違いしたことから、怪我人が出たなどの逸話もあるそうです。確かにパッと見た感じではそう思っても仕方ないかもしれない形状です。


敗戦の色が濃くなった1945年3月10日、米国は日本の首都東京に民間人をも巻き込んだ、無差別の大量虐殺、東京大空襲を決行。その後13日に大阪を、17日には神戸を空襲。当時開発されたばかりの ボーイング B-29 スーパー・フォートレス が日本の上空 高度10,000メートルという超上空をその名の通り "要塞" として君臨。超空の要塞B-29による日本本土の焦土作戦とも言える大規模な空襲を実施した結果、延べ56万人もの人々が無差別に焼き殺されました。B-29に対抗すべく当事の日本に用意されていた邀撃(ようげき)体制は、東京杉並区に設置された「五式十五センチ高射砲」が僅かに2門。その頼みの高射砲が火を噴き、見事撃墜したB-29はたったの2機・・・。終戦までの間に撃墜できたB-29は3桁に届かず、防戦一方だったようです。

そして日本の敗戦を決定付けた広島、長崎への原爆投下。マンハッタン計画により、1945年8月6日には B-29 "エノラ・ゲイ" がウラニウム型原子爆弾の "リトルボーイ" を広島へ投下し、その3日後となる8月9日にはB-29 "ボックス・カー" がプルトニウム型原子爆弾 "ファット・ボーイ" を投下。広島では14万人、長崎で7万人の生命が一瞬にして奪われました。放射能の影響によって後遺症が続き、その後最終的に広島では30万人、長崎で14万人の犠牲者を出しています。

空襲による被害者、原爆による被害者。いずれもその殆どが民間人を巻き込んでいます。流れ弾に当たってというレベルではなく、意図的にターゲットとしていることが見て取れるのです。

戦争にもルールがあるはず。最低限の・・・。多くの国が批准していると言われている "ハーグ陸戦条約" を例にしても、交戦規約には正規軍や民兵、義勇兵といった武装している人物が対象となっています。紛らわしい格好をしていることは別としても、民間人に対しての交戦は認めていません。

米国が "世界の警察" を自認し、自他共に認める格好となった今、国際社会での美辞麗句に惑わされるものかと、深く詮索する自分がいるのもこうした史実があるからなのかもしれないと、自問自答しています。
「原爆の投下があったから、一億総玉砕とならずに済んだ」などといった見解も有るそうですが、「ハイそうですか」と鵜呑みに納得する問題とは異なるように感じるのです。

そして日本は昭和天皇のご聖断により終戦を敗戦として迎え、約4年に渡って繰り広げられた大東亜戦争が終結。

日本の敗戦が決定付けられたと世界の誰もが感じた頃、連合国各国の思惑が色濃く反映された日本統治案が触手を伸ばしてきます。日本の「四分割統治案」。ドイツが東西に分けられ、二分割統治がおこなわれたように、日本を四分割にして統治を使用とする案が提案されました。

北海道・東北:ソ連
関東~近畿:米国
中国地方と九州:イギリス
四国:中国(中華民国)
※東京のみ4ヶ国による共同管理とし、大阪は米国と中国による共同管理とする

という案が検討されました。4ヶ国も集まれば、まとまるものもまとまる由も無く、結局は立ち消えになり現在に至っているのですが、これがもしそのようになっていたら・・・と想像するだけでもゾっとします。特に・・・アノ国とアノ国の属国、植民地にだけはなりたくない・・・。


後藤寿一著 もう一度学びたい 太平洋戦争 西東社刊
元サンケイ新聞社の記者だった著者が、アジア・太平洋を中心に激戦が繰り広げられた太平洋戦争を、史実に沿って分かり易く解説しています。ミギ寄りの論調が特徴の産経新聞ですが、本書ではその傾向も無く、極めて公平な視点から解説しているのが最大の特徴ではないかと感じます。様々な書籍を見て回りましたが、非常に飲み込み易いように解説してくれているのでオススメの一冊です。また、全ページに渡って、1ページに付き1冊、トピックス毎の関連書籍や映画、DVDを紹介し、メディアとの融合を図っているのも嬉しいです。


そしてミュージアム外にでると、屋上や建物の周囲に戦史を飾る兵器たちの姿が。

AH-1 コブラ


米軍の簡易トーチカ


簡易トーチカの使用方法


日本軍の九五式軽戦車。主砲は九四式37mm戦車砲でその他に九七式7.7mm車載重機関銃を2門装備。空冷式のディーゼルエンジンで時速30マイル(48Km/h)、160Kmの走行が可能であったとしています。


第二次大戦末期に登場した、米軍の M24 チャーフィー軽戦車。40口径75mm戦車砲M6 を主砲とし、副武装に12.7mm M2 重機関銃と 7.62mm M1919A4 機関銃を装備。エンジンには、キャディラックV型8気筒水冷ガソリンエンジンを2基搭載し、19トンの車体と4名の乗員で時速35マイル(56Km/h)で走行。


第二次大戦中に米軍が使用していた M3 105mm榴弾砲。射程距離は約7,600m


日本軍が使用していた一式機動四十七粍速射砲(いっしききどう47みりそくしゃほう)。500ヤード(=約460m)離れた地点で3インチ(=約7.62cm)の装甲を貫通することが可能。


1848年に鋳造されたと言われている大砲。1778年、イギリスの海軍士官であり、海洋探検家でもあったJames Cook(クック船長)にがハワイ島を訪れて以来、ハワイのカメハメハ大王らは西洋の技術により作られた兵器に興味津々だったことが、この大砲を紹介するプレート内のテキストに紹介されています。


こちらのミュージアムの売店では、お土産グッズの販売もおこなっていました。
様々なグッズに目を輝かせながら触手を伸ばしておりましたが、旅の浮かれた気持ちで不要なものを買うまいと、厳選に厳選し、購入したのがこちらのピンバッジ。
"Go for broke!"、「当たって砕けろ!」、「死力を尽くせ!」をスローガンとした、米国陸軍の日系人部隊 "第442連隊戦闘団" のものと、星条旗×ハワイ州旗のものを購入。
442部隊といえば、米国の戦史上でもっとも数多くの勲章を受けた部隊として有名ですが、最近ではSMAP 草なぎ剛氏が主演のTV映画で取り上げられたのが記憶に新しいところです。
そしてハワイ州旗の方はというと、ガイドさん曰く、イギリス人のクック船長に由来してユニオンジャックがあしらわれたデザインが採用されているとのことです。
特に442部隊のバッジについては、売店のレジに居た日系人の初老の男性から、「兄ちゃんこれは意味を知って買うってのか?」と訊かれ、「もちろん、そうだ」と答えると、「あんた、通だねー、このピンパッジはここにしか売っていないんだよ」と。身に着けることなんて無いのですが、旅の記念に、そして60余年前の史実に触れた記念に、大切に保管しようと思います。


参考書籍:
後藤寿一著 もう一度学びたい 太平洋戦争 西東社 刊
渡部昇一著 日本の歴史6 昭和編 「昭和の大戦」への道 WAC刊
渡部昇一著 日本の歴史7 「戦後」混迷の時代に WAC刊
清水政彦著 零式艦上戦闘機 新潮社刊
前間孝則著 日本はなぜ旅客機をつくれないのか 草思社刊
竹田恒泰著 日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか PHP新書刊
Posted by ahahamaster at 16:20│Comments(2)
この記事へのコメント
Luminoさま

ご無沙汰しておりますHACです。
貴重な画像をありがとうございます。
私なら、いつまでもそこにいて見ていたいものです。
Posted by HACHAC at 2011年09月04日 14:17
HACさん、こんにちは。コメント有難うございます。

そして、コメントの反映がすっかり遅くなってしまい申し訳ございません。

いやいやー、このミュージアムは中々に考えさせられる内容でしたねー。展示されているものもそうですし、また、その表現方法も違和感を感じるものもあったので、正直私は長居したくありませんでした。

歴史の解釈はそれぞれの国の国益に沿った解釈をされるので、国の数だけ歴史の解釈があるのは分かるのですが・・・。

うーん、難しいですね。。。
Posted by Lumino at 2011年11月01日 19:40
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